與倉村 与倉 | |
下総国香取郡大戸荘与倉村(明治十一年作成の戸簿簿:佐原市役所の地下室所蔵)の |
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高橋家、片野家 |
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高橋、片野家の与倉村との関係は天正中にこの地を支配していた矢作城主国分氏の |
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板碑(下総板碑) |
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与倉には古い板碑が幾つもある。 |
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これらの板碑は六百五十年以上前で高橋、片野一族の帰農以前のものであると思われます。 |
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城跡 「お堀」 |
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又「お掘り」と称する空掘りの城跡があり(香取郡誌には国分氏の属城?とあり、佐原市史には往古の官倉の跡?とある)現在は民間の人の住居となっているが城跡らしく平らな敷地の周りを グルッと空の濠が廻らしてあり、今でも濠の跡らしいものが残っている。 |
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宝雲山 大竜寺 京都.妙心寺派 |
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宝雲山大竜寺は佐原市の寺院としては、 |
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関係古文書、宝物類は多かったに違いないが史料については永録八年九月及び天正三年 寺の由来については釣鐘に刻んであったそうですが、戦争中に三百年より少し若かったので |
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そ れが先住の全龍和尚の時、本尊千手観世音菩薩像の入っている厨子の修理をした際、釣鐘に刻んであったと同じことが漆の板に刻み、厨子の中に嵌ハメこまれて いるのが見つかった。文面は「原夫宝雲山大龍寺者大同年中開創境内三万坪余眩圓律師一見此地結草庵律行昼夜不怠也 |
大竜寺の由来厨子板碑 |
…計四百九十一文字…云々 喝 ★元禄十四辛巳歳季夏吉日 花園末枝当山廿四世 安禅祖泰謹記焉 本願主 片野新福寺隠居 秀道祖教 小野村木寄木エ衛門 江戸小伝馬町大彿師長浜エ と 記してあった。…大同年間(千百九十年前)の創建で現在は臨済宗妙心寺派に属し、至徳中(六百十年前)矢作城主国分寿歓の創建になり、鎌倉建仁寺よりの大 航慈船和尚を開基とする。そして矢作城主国分氏の禅寺として長年栄えたが後衰微し、元亀年中(四百二十五年前)に博学多才の大蟲宗岑和尚が下野(栃木)の 雲岩寺より来て中興開山し、盛んになり、代々有名な学僧が住職をつとめた。(大蟲語録は写しではあるが現存する) 近世に於いては廿七世の巴陵、一燈、徽叟、穆翁等は博学名僧の聞こえが高かった。 城内には暦応、文明、永正、大永、天正の古碑等多数あり、現住職が一堂に集め保存に留意されている。 |
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佐原開拓者の祖である伊能家(伊能因幡守心月入道)の墓もあり、境内本堂横庭の六角石には、嘉永年代当主伊能茂左エ衛門景晴が識した伊能宗家の由来が刻まれている。 市内の諏訪下常照寺、大倉清宝院、片野新福寺などは大竜寺の末寺である。 |
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千葉系図 国分氏の石碑 |
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500年前、千葉氏系の豪族で香取地方を支配し、矢作城に居して、大竜寺を再興した。 天正年代の終り頃滅亡し、水戸におちのび、移ったとされる。 |
■国分氏由来墓碑 |
その他 与倉.高橋元右ェ門家(10代の古い香典帳) |
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私の村には調べるに値するものが沢山ありますのでこれからも 勉強したいと思います。 与倉の歴史については「高橋館資料室」もご覧ください。 |