ふるさと与倉の歴史

与倉に伝わる文物を中心に

千葉県香取市与倉 千葉県香取郡香西村与倉(佐原市合併.現香取市統合)  
下総国大戸莊与倉村

  與倉村 与倉

下総国香取郡大戸荘与倉村(明治十一年作成の戸簿簿:佐原市役所の地下室所蔵)の
戸籍簿によれば三十四戸ある。

現在の与倉の世帯数は新住民を含めると百数十戸あるが、旧住民は(本家、新宅、インキョ)
を含め六十戸位あり、その中高橋姓は三十、片野姓は二十、その他十戸位である。

    
               1755年 宝暦五年 250年前 「のぼり旗」 


高橋家、片野家

高橋、片野家の与倉村との関係は天正中にこの地を支配していた矢作城主国分氏
滅亡退により、その家臣であった高橋族、片野族が与倉の地に帰農して旧住人と一緒に
生活するようになったと伝えられている。

その資料として高橋武右エ門家寛司氏所蔵の文書を紹介します。
寛政 6年(二百年前)の当主武右エ門が大竜寺の二十九世徽叟和尚の所へ「家の譜畧」と称するものを持参して調べてくれといって、書いて貰った文書を見ると高 階氏(高橋)は越後の弥彦神社神司の裔にして天文中に東に来たり、矢作城主国分氏に仕える。天正中(四百年前)に国分氏敗退滅亡し、家臣であった高階一族 は与倉に住し、帰農したとある。
現在高橋系の氏神様には越後の弥彦明神を祀ってある。



板碑(下総板碑)

与倉には古い板碑が幾つもある。



お化け石
と称するに二尺五寸×五尺位の平石があり、これには種々の伝説がある
(刀の傷と称する跡があり、牛が化けて誰かが切ったとか?)。現在は3分の2位土に
埋まっている)。


        
                 おばけ石   
 調べて見ると錫杖(シャクジョウ)を持った地蔵様が線刻されており
   1349年  貞和五年二月十八日   (六百五十年前)
    の北朝の年号が刻まれています。



又、民間の氏神様の所に
1319年  元応元年十一月十三日敬白
            
 (六百七十五年前)の板碑がある
         
    右志者○慈父悲母○證○也 一尺五寸×三尺

これらの板碑は六百五十年以上前で高橋、片野一族の帰農以前のものであると思われます。
その他にも幾つか年号不詳の平石があります。
 
                 

城跡 「お堀」

「お掘り」と称する空掘りの城跡があり(香取郡誌には国分氏の属城?とあり、佐原市史には往古の官倉の跡?とある)現在は民間の人の住居となっているが城跡らしく平らな敷地の周りを
グルッと空の濠が廻らしてあり、今でも濠の跡らしいものが残っている。

宝雲山 大竜寺 京都.妙心寺派


与倉には宝雲山 大竜寺という名刹がある

宝雲山大竜寺は佐原市の寺院としては、
寺内の光福寺と共に最も古い名刹である。

 


関係古文書、宝物類は多かったに違いないが史料については永録八年九月及び天正三年
一月の矢作城の戦火の時罹災してしまったという。

寺の由来については釣鐘に刻んであったそうですが、戦争中に三百年より少し若かったので
供出させられてしまったとのことで不詳となっていました。

そ れが先住の全龍和尚の時、本尊千手観世音菩薩像の入っている厨子の修理をした際、釣鐘に刻んであったと同じことが漆の板に刻み、厨子の中に嵌ハメこまれて いるのが見つかった。文面は「原夫宝雲山大龍寺者大同年中開創境内三万坪余眩圓律師一見此地結草庵律行昼夜不怠也 

         大竜寺の由来厨子板碑
    観音像厨子 黒うるし塗り裏板に彫刻文あり 

 …計四百九十一文字…云々 喝

 ★元禄十四辛巳歳季夏吉日

 花園末枝当山廿四世 安禅祖泰謹記焉

 本願主 片野新福寺隠居 秀道祖教

     小野村木寄木エ衛門

     江戸小伝馬町大彿師長浜エ

と 記してあった。…大同年間(千百九十年前)の創建で現在は臨済宗妙心寺派に属し、至徳中(六百十年前)矢作城主国分寿歓の創建になり、鎌倉建仁寺よりの大 航慈船和尚を開基とする。そして矢作城主国分氏の禅寺として長年栄えたが後衰微し、元亀年中(四百二十五年前)に博学多才の大蟲宗岑和尚が下野(栃木)の 雲岩寺より来て中興開山し、盛んになり、代々有名な学僧が住職をつとめた。(大蟲語録は写しではあるが現存する)

近世に於いては廿七世の巴陵、一燈、徽叟、穆翁等は博学名僧の聞こえが高かった。

城内には暦応、文明、永正、大永、天正の古碑等多数あり、現住職が一堂に集め保存に留意されている。

佐原開拓者の祖である伊能家(伊能因幡守心月入道)の墓もあり、境内本堂横庭の六角石には、嘉永年代当主伊能茂左エ衛門景晴が識した伊能宗家の由来が刻まれている。

市内の諏訪下常照寺、大倉清宝院、片野新福寺などは大竜寺の末寺である。




■六角石碑文

千葉系図 国分氏の石碑

 500年前、千葉氏系の豪族で香取地方を支配し、矢作城に居して、大竜寺を再興した。

 天正年代の終り頃滅亡し、水戸におちのび、移ったとされる。

■国分氏由来墓碑

その他  与倉.高橋元右ェ門家(10代の古い香典帳)

 

 

   

高橋家 古い香奠帳1

古い香奠帳2

   安永6年 高野山  
    月牌之証文
     
         「鎧と弓」                  「鼓」                 「鎧」  

 
     250年前頃の「楠の大木」              同年代頃の「甘柿」の大木.2本あり  

   私の村には調べるに値するものが沢山ありますのでこれからも
   勉強したいと思います。
  
与倉の歴史については「高橋館資料室」ご覧ください。

 

 

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