郷土史資料室 高橋館

  今から

  30年前頃より郷土の方言、なまり言葉の蒐集、650年以上前の村内にある下総板碑

  の拓本、当地方支配者、豪族矢作城主国分氏について、国分氏旦那寺である宝雲山

  大竜寺( 佐原市の寺院としては寺内の光福寺と共に、最も古い名刹である)…

  関係古文書、宝物類の調査研究、佐原開拓の祖である伊能宗家について、 私宅に 

  伝わる200年以上前頃からの当家香典帳 他資料の数々を陳列 紹介いたしたいと

  思います。

宝雲山大竜寺につい 与倉村について

宝雲山大竜寺

      
    
           与倉の宝雲山大竜寺          

  宝雲山大竜寺は佐原市の寺院としては、寺内の光福寺と共に最も古い名刹である。

  大竜寺の由来については、寛文年間に造立された釣鐘に彫刻されていたと伝えられていて 

  関係古文書、宝物類は多かったに違いないが資料については、永禄8年9月及び天正3年1月

  矢作城戦火の時罹災してしまった。太平洋戦争の時、大竜寺の由来を刻んだ釣鐘が300年より
  新しいと云うことで

  供出させられてしまい不祥となっていました。 それが先住 全竜和尚の時、本尊千手観音

  菩薩像の入っている厨子を修理した際、釣鐘に刻み込まれていたと同じことが 漆の板に刻み

  厨子の中に嵌め込まれているのが見つかった。

  文面は「原夫宝雲山大竜寺者大同年中開創境内三万坪余眩圓律師一見此地結草律行昼夜不怠也

  … …計四百九十一文字… 云々 喝

  時元禄十四辛巳歳季夏吉日 花園末枝当山二十四世 安禅祖泰謹記 焉

            本願主  片野新福寺隠居 秀道祖教

                 小野村木寄木エ門

                 江戸小伝馬町大仏師長兵衛

  と記してあった。…大同年間(1190年前)806〜創建で現在は臨済宗妙心寺派に属し、

  至徳中(1384) 矢作城主国分寿歓の創建になり、鎌倉建仁寺よりの大航慈船和尚を開基とする。

  そして矢作城主国分氏の禅寺として長年栄えたが後衰微し、元亀年中(1570)に博学多才の大虫宗岑

  和尚が下野(栃木)の雲岩寺より来て中興開山し、盛んになり代々有名な学僧が住職をつとめた。

  (大虫語録は写しではあるが、現存する) 近世に於いては二十七世の巴陵、一燈、徽叟、穆翁等は

  博学名僧の聞こえが高かった。域内には暦応、文明、永正、大永、天正の古碑等多数あり、現住職

  が一堂に集め保存に留意されている。

  市内諏訪下の常照寺、大倉の清宝院、片野の新福寺等は大竜寺の末寺である。
               

           

                            大竜寺の板碑 

    

       厨子の碑文                     厨子の裏板碑文 

           

                大竜寺の過去帳

 矢作城主国分氏について

 6〜700年前頃 国分氏は、千葉氏系の豪族で香取地方を支配し、矢作城に居住し栄枯盛衰あり

 国分寿歓は至徳(1384)中宝雲山大竜寺を再興し、国分氏の禅寺として長年栄えた。

 天正年代(1586)の終り頃矢作城国分氏滅亡敗退し、水戸に落ち延び移ったとされる。

               

                   国分氏の墓碑銘(水戸) 


 佐原開拓の祖伊能宗家について

 天正年代の終り頃 矢作城主国分氏滅亡敗退のおり、家老職であった伊能因幡守朝辰入道

 心月は戦い破れて自刃し、子の越前、勘解由を闇に乗じて逃れさせたとある。

  (この子二人が佐原開拓の祖、伊能家であると推測される)

        

            六角石(伊能家由来)の碑       六角石の碑文


                  
与倉村について