旧制.千葉県立佐原中学校 四十一期生の懐古録  41期 同窓会長 高橋利男(平成19年記す)
          

          
                   佐原高校正門 現校舎                   旧制中学 門表札

  私達は昭和2年.兎年生まれで、傘寿80歳になりました。 想い出せば昭和15年4月1日
 方々の小学校から180名.定員の佐原中学校に入学しました。1年1組は保井先生.2組は大崎先生.3組
は菊池先生の担任でした。入学式当日、父兄に連れられ、帰りに校門前の植田金正堂(何故か
ペテ金)で
布製ズックの背嚢(ランドセル)と、 2本の黄(金線)の入ったピカピカの帽子、星の真ん中に「中」の字のある徽章、
憧れの帽子と入学用品を買って貰い、胸をワクワクさせた記憶があります。 制服(マルセ注文)が出来るまで、
それぞれ思い々の服(坊ちゃん服)を着て、私達.農家
(ゼイゴ)出身者などは「カスリ」の着物などを着て、
自転車で通学していた。

 「佐中の徽章」
5つの鉾に囲まれた真ん中に「中」の字が配されていて、誇りにたる星の徽章であった。徽章の描き方を 
図工の林英夫ハト先生に教わった、コンパスで円を描き、上下左右の1点よりコンパスを使って何回か描く
と、5つの鉾が出来て 立派な星.徽章が出来たことを思い出されます。
           
                     佐中 徽章                         帽子 

 「ゲートル」と「通学団」

制服が出来ると黄色のゲートルを巻いて毎日登校が始まった。途中で先生や上級生に会うと挨拶をして
挙手の敬礼をすることになっていた。町内生徒は徒歩、近隣町村からは自転車通学団、東部、西部汽車
通学団があって、団体で登下校していた。通学団ごとに時々射撃場で集会を開き、自己紹介をさせたり、
上級生による「説教会」…(イバリ?)等あり、下級生はその度にビクビクして先生より怖がっていた。 
ゲートルについて‥下級生等はズボン.下の方を曲げ折ってフクラハギの上までキチンと巻いて通学して
いた。 上級生になると軟派組は帽子に靴墨等を塗ってテカテカにし、黄色の金線も白くし、間をせばめ
1本にし、ゲートルも白く洗い古くして、ズボンの下の方に短く巻いて、何か イバるように歩いていた。

  「天壌無窮の碑」と「佐中魂の要石」
 私達入学の昭和15年は皇紀2.600年で式典を催し、荒木貞夫陸軍大将執筆の「天壌無窮の碑」を
校庭にに建て「無窮ケ丘」と称した。そして翌年その碑の下に「要石」という「佐中魂」と彫刻した御影石を
土の中に埋めた記憶があります(礎石)。これは当時の校長が皇国主義教育の実践者でコチコチに凝り
固まった先生達がやった事業だったと思います。大多数の先生と生徒達は余り関心は無かったと思います。
 (今 あの石はどうなっているのかな?)

  「報告農場」

 銃後の守りの事業として、食糧増産 勤労奉仕の作業も盛んに行われ、私達下級生も参加した。
現在の佐原市役所辺りと思いますが、「泥ジョー機」.蒸気船が利根川に浮かんでいて、川の泥を水と
一緒に浚い、汲み上げて太い鉄管(パイプ)を通して流し、水だけを利根川に送り返して埋め立てた広い
大砂原が出来ていた。雑草と葦が繁茂した荒れ地があった、この土地を林ハト先生の引率で雑草を退治し
大豆を蒔いて秋に結構収穫出来たように覚えています「報告農場」 暑い炎天下に竹ヘラで雑草を取り除く
作業は本当に大変でした、今でも脳裏にはっきり浮かびます。


 「夜行軍」

 当時 軍事教練の名のもとに毎年夜の行軍が催され、3年生以上は鹿島神宮 2年生以下は潮来
「高女?」まで 無駄話も余り出来ず一晩中寝ないでの行軍はつらかった。翌年の夜行軍に神崎神社
(ナンジャモンジャの木) まで歩いた記憶があります。

  「体力章検定」
 3年生頃から体力章検定というものがあり、手帳を渡され「土嚢かつぎ」「手榴弾投げ」「100米走り」
 「ケンスイ」 …等やった記憶があります。

  「夏季鍛錬.水泳」
 2年位続けて7月末頃、「さつき丸」という大きい船で、荒川の関門の所で乗船し浮島の水泳場に
 通って泳ぎました。 6尺褌フンドシの締め方を教わり、榊直先生(水府流の達人?)に泳ぎを教わり
 体を鍛えた。西代から牛堀まで横利根川で遠泳の競技会があり、各学年から代表がでて競争しました。

  「グライダー滑空訓練」
 利根川の河川敷に格納庫があり、ソアラという名前のグライダー等があり、太いゴム紐を何人か2列で
 ひっぱって 号令で離して滑空したことを覚えています。
        (グライダー訓練は正規の授業に入っていたのかな?)
 教官はたしか古川先生、大塚先生…等と記憶しています。滑空部員に久保田泰三.大野健.八木章.
 石橋久夫 …がいて4年生の夏頃、予科練生の先陣として土浦航空隊に入隊し、佐原駅で見送った記憶が
 あります。その後 10数名が入隊したように覚えています(この人達の正規の卒業年は復員後佐中43期
 と聞いています)
  
  
            
                       昭和18年  佐中滑空部員 
  「霞ヶ浦航空隊見学」
 さつき丸で土浦の予科練航空隊を全校で見学に行きました。「月月火水木金金」の教育は大変だった
 と思います。 佐中出身者にも会い激励して来ました。

  「軍事教練 野外演習」
 昭和17年 3年生になると教練で銃を持たされ、小川長太郎曹長先生.野口中尉配属将校に訓練を指導
 された。 銃器庫があり、村田銃.38式銃がズラリと並んでいた。銃剣の操作も教えられた、この年4月中頃
 日本本土初空襲があり、一機低空で佐原の上空を飛来した記憶があります(この時は何の被害もなかった)
 翌18年4年生になって、銃をかついで四街道下志津原(栗山廠舎)に2泊3日の戦闘訓練実習を受けた。
 昭和19年になると大東亜戦争も愈々烈しくなり、新聞なども軍事一色、誇大戦果の報道ばかりでした。

               
                        佐中 射撃場 (説教場) 
 



 「富士裾野.野外演習5日間」

 私達5年生は5月6日(土)朝8時登校、佐原発9.01の汽車で出発、東京駅下車 宮城前まで行進して
 遙拝 夕方御殿場に到着、1里半位歩いて滝ケ原の私設廠舎に入り、7.8.9と雄大なる富士山を前に
 戦闘訓練の指導受ける。厳しい野外教練だったが、一生懸命将来の為になると思い頑張って参加した。  

  「松戸飛行場建設作業8日間」
 6月17日(土)佐原発9.01 千葉駅より省線電車で船橋駅下車、トラックで鎌ヶ谷の作業現場事務所前
 まで運ばれる。午後から早速トロッコ押し、土方作業始める(夕食メシ.大根汁.おしんこ) トロッコ押し
 精鋭部隊など選出、模範になるほど頑張った。隣の飯場に朝鮮の人達が大勢いた
    (なかに歌.「愛染かつら」を上手に唄う人がいた)


  「懐古」
 (学徒動員9ケ月の項と重複あり)
 私達の5年間の佐原中学生活は、支那事変、大東亜戦争、後半には本土決戦間近か…軍国主義一色
 になり厳しい世相、教育にも不平を云うものもなく、皇国主義.神国日本の教育に染まり、敗戦などとは夢
 にも考えなかった。特攻隊になれと云われれば何時でもなれる心境であった。(浅はかだったでしょうか?)
 現代の若者達と違って、自由も青春もなくただ黙々と間違った国家事業に駆られ、協力して過ぎてしまった
 ことは、運命であって後悔しても仕方ありません。「勝つまでは欲しがりません」 の標語の通り、ひもじい
 空腹に堪え、戦闘帽と鯨油まみれの作業服で、寒い冬空を見上げながら、戦闘機のエンジンクーラ.パイプ
 の伸ばし作業を3交替で働いたことなどが、走馬灯のように思い出されます。このつらい労働、ひもじい
 粗食生活は現在の長命の高齢社会に伍して生きられる礎石になっていると思えば、恨むどひろか有り難い
 と つらい青春時代に感謝しています。とりとめのない懐古録を書いてしまいました。

              
                   
昭和18年9月 予科練入隊見送り 佐原駅

   ご笑読を感謝いたします (昭和20年 終戦の頃 旧制中学.在学又は卒業頃の方は是非ご覧を)
         
 (ヤフー検索「高橋庵」と3字入力で高橋利男ホームページ全部出て来ます、ご覧下さい)

                「思い出の日記」より     佐中41期 同窓会長 
高橋利男 

          
                  
      佐原高校現校舎