旧制.中学時代 学徒動員の思い出    

 私達は 国家総動員法により、中学5年生は船橋の日本建鐵に通年動員となり、一般授業は止めて
19年7月15日(土)より 20年4月24日(日)まで、9ケ月余 戦闘機.「0戦」の
 「エンジン.カバー」

作りや、昼夜3交替制で「エンジンクーラー」  の「伸銅パイプ」の増産に従事、頑張りました。
夜11時出勤当番、の時など本当に辛かった。「勝つまでは頑張ろう」の合い言葉で「鯨油」まみれに
なって夜半2時頃 夜食を食べて働いた記憶があります。 

 空腹…「ひもじい」と云うことが如何なることか、17.8歳の食べ盛りの時、与えられただけの食事
(量も少なく粗食そのもの) 「イナゴ」も食べました。夜などお腹が空いて、眠れないこともあった。
 然し 当時 誰も不平を云う人は一人もいなかった。

 今思えば不思議である、軍国主義、神話の国、の教育に全員がすっかり染まり切っていたと思います。
 増産の成果を上げ、佐原中生は優秀で立派だと工場側から褒められ喜び合ったことがありました。
 因みに私達動員学徒は、月によって違いましたが1ケ月に 11円位、報償金と称して教官室に呼ばれ
 頂いた。授業はしなかったが学校の月謝分は差し引かれていたとのこと。  

 この動員中に、後にも先にも体験出来なかったことがありました。それは 「虱」 シラミと云うもの、
私は小さい頃、「シラミ」は不潔な女の子の頭、髪にだけつくものだと思っていて、見たこともなかった。

船橋の寮生活も、特に不潔ではなかったと思います。毎日お風呂にも入っていたし、下着も結構取り替え、
洗濯もしていた。然し いつの間にか誰もが、皆この「シラミ」君と仲良しになって、一緒に暮らすように
なってしまいました。「ボリボリ」掻き過ぎて赤く腫れ上がって「おデキ」になってしまった人もいた。

公休日を待って、家に持ち帰り、母親に一回煮沸して 洗濯して貰うと赤く茹で上がった「シラミ」君が 
「エビ」みたいに下着に一杯ついていて笑われたり、びっくりしたことが思い出されます。

寮で夕食後、滑稽なある友達が、元気のよい「シラミ」君を5.6匹並ばせて、どれが早く歩くか競争させて
いた。 シラミ君を机の上に大勢並ばせると丁度、空襲の「B29」が、高度の上空を、編隊を組んで悠々と
飛んでいるのに似ていて、今でも目をつぶると想い浮かびます。

 昭和20年になると戦争も、いよいよ激しくなり、空襲は東京も大打撃を受け、船橋の日本建鐵も危なく
なり4月24日を最後として佐原中学校に工場疎開.帰ることに決まりました。

中学校の錬成館(雨天体操場)に船橋から備品を移送して「エンジンカバー」作りの学校工場が始まりました。
私達は3月31日 (実は28日) 全員参加でなく、代表だけによる卒業式(42期生も同時)で後から
卒業証書(小さい)を貰った。その後 進学組、就職組、学校工場残り組、に分かれたように記憶しており
ます。

この頃何人かの人は、特別幹部候補生(特幹)に志願し、送別会をやり、見送りしました。私達「兎年」は
誕生日か゜来ないと満20歳にならなかったので兵役は免れた。 一級上の人達は「軍隊生活」(期間は短い)
の経験者であった筈です。

     
懐古
  私達 5年間の佐原中学校生活は、支那事変、大東亜戦争、後半には本土決戦、間近…軍国主義一色
になり、厳しい世相、教育にも 不平を云うものもなく、皇国主義、「神国」日本の教育に染まり、敗戦などは
夢にも考えなかった。

「特攻隊」になれと云われれば、何時でもなれる心境であった。   (浅はかだったでしょうか?)
現代の若者達と違って、自由も青春もなく、ただ黙々と間違った国家事業に駆られ、協力して過ぎてしまった
ことは、運命であって後悔しても仕方ありません。

「勝つまでは欲しがりません」の標語の通り、「ひもじい」空腹に耐え戦闘帽と「鯨油」まみれの作業服で寒い
冬空を見上げ乍ら、戦闘機のエンジン.クーラー.パイプの伸ばし作業を3交替で働いた事などが走馬燈の
ように思い出されます。

この辛い労働、「ひもじい」粗食生活は現在の長命の高齢社会に伍して生きられる礎石になっていると思えば
恨むどころか 有り難いとつらい青春時代に 感謝しています。

   とりとめのない思い出 「懐古録」を書いてしまいました。    ご笑覧 感謝いたします。

     旧制 千葉県立佐原中学校 41期 同窓会長  高橋利男